2007年7月17日火曜日

尾崎豊リンク集

尾崎豊に関する記事を書いているブログを集めてみました☆

変態/ルーシェルからのバ㌧/篠原涼子ってどんだけー!!ですわっ.../篠原涼子はファザコン?/ブライス/7/15/ゴルフ場予約/ジッポ/タトゥー/アクリル板/WindowsVista/ゴルフ練習場/スターバックスタンブラー/タンブラー/ゴルフ予約/ギター♪/連絡なし/ドリカム 吉田美和、鯖さん伝説?/便利屋/横浜歩きの午後/受験生’s/プチブライス/ブライス/ブライス/僕が音楽を好きになった訳/I LOVE YOU

あー。尾崎聴いてたら、なんか無性に
地元(近畿方面)の友達に会いたくなったかも。
近畿の友達、今何してるんだろーとか、
たまーにたまーに、思う。
近畿じゃ色々あって、
色んなヤツと出会って、
でもって高校卒業して別れて。
その分また、別のヤツラと出会ったりもしたけど、
やっぱアイツラとの思い出は別格だったり。
近畿・出会いと別れ。

なんちって、ちょっとセンチメンタル過ぎる?

2007年7月2日月曜日

尾崎 豊FAN

尾崎豊(おざき ゆたか、本名同じ 1965年11月29日 - 1992年4月25日)は、日本の歌手、シンガーソングライター。 東京都世田谷区出身。血液型はB型。ISOTOPE(アイソトープ)所属。

概略:1983年、シングル『15の夜』とアルバム『十七歳の地図』でデビュー。4枚目のシングル『卒業』の大ヒットでブレイクする。理想を追い求め、学校や社会の不条理に立ち向かう心の叫びのようなその歌の世界は特に、多感な世代の心を捉え、若者のカリスマ的存在となる。代表曲として『I LOVE YOU』、『OH MY LITTLE GIRL』などで知られる。
26歳という若さでの突然の死はファンに大きな衝撃を与え、その短い生涯は伝説となった。今なお尾崎を慕うファンは絶えず、その名曲はカバーされたり、多くの人によって歌い継がれている。


プロフィール:田柄第二保育園から田柄第二小学校に入学するが、尾崎一家が埼玉県 の朝霞市に新居を構えた為、1976年8月12日に埼玉県朝霞市へ転居。小学校5年の2学期より、朝霞市立の小学校へ転校する。父親が防衛庁職員であったため、いずれも自衛隊の駐屯地が近くにある街であった。母親は保険の外交員で暮らしは決して裕福ではなかったが、教育熱心な家庭であった。 小学校卒業後は本人の強い希望により練馬東中学校(通称・ネリトン)へ越境入学する。練馬東中学校時代は、生徒会副会長を務めた。同期には中田久美がいた。校舎の裏でタバコをふかした場所は今でも残っている。 第一志望であった埼玉県内の私学の最難関である慶應義塾志木高等学校に不合格となり、青山学院高等部に進学。さらに、1月15日に受けた陸上自衛隊少年工科学校の1次試験は20倍の競争率を突破して合格。しかし、髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、既に合格していた青学に進学することになった。 学校から無期限停学処分を受け、ファーストアルバムを制作する契機となる。出席日数が足りず留年となり、自主退学。高校の一期先輩には高橋克典、二期後輩には蓮舫がおり、在学中から他界までそれなりの交流があったともいう説があるがはっきりしない。 ファーストアルバムでの尾崎豊の歌詞は、何度も何度も書き直されたもので、ソニーでのレコーディングはリテイクの嵐だった。尾崎の持つ情熱をいかに文字として表現させるという事が、当初のテーマであった。 尾崎豊は完全な口コミでファン層が広がっていった。このため、ファーストアルバムである『十七歳の地図』は3千枚を売るのも大変で、当初はセールス的には成功しなかった。しかし、その後徐々に人気が出て『卒業』の大ヒットにより、その地位を確立した。 10代の頃は大人への反抗や反体制をテーマにした歌を多く歌い、新聞などで「10代の教祖」とも呼ばれたが、本人及びコアなファンはこうした呼称を嫌っていたとも言われている。だが、校内暴力が横行していた時代と相まって一種の社会現象ともなる(深夜に中学校の窓ガラスを割って回るなどの狼藉を働く者は尾崎デビュー前からもいたが、シングル「卒業」の歌詞に触発されて行った若者もあったと見られる)。 尾崎の詩を研究するファンにおいても、単なる校内暴力肯定等と解釈することへの批判が見られる。例えば「卒業」にしても「何度自分自身卒業すれば本当の自分にたどり着けるのか」が重要なテーマであって、学校からの卒業は不透明な未来の中で唯一分かっているに過ぎない瑣末なことだ、という見方がある。自らが校舎のガラスを割ったのは先が見えない無力さの発露あるいは愚行であって、自分自身における「卒業」こそが大事だという見方には、歌詞を素直に追っていけばうなずける面もある。 尾崎に覚醒剤での逮捕歴があることからしばしば誤解を受けるが、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用―オーバードーズによる急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、また亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もあるが、真相は不明のままである(警察は「事件性なし」として調査を終結。-尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが受理されなかった。1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さはいっそう深まった)。そのため、今までに尾崎の生涯を描いた多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。 現在、尾崎が倒れていた東京都足立区の千住河原町の民家の部屋は所有者の好意によってファンに開放されており、「尾崎ハウス」と呼ばれ、ファンの交流の場になっている。 死後、尾崎のアルバムが急激に売れる現象が起こり、1992年5月25日付けのオリコンアルバムチャートでは、TOP10中6作を尾崎が占める現象が起こった(1位「放熱への証」、4位「回帰線」、5位「十七歳の地図」、6位「LAST TEENAGE APPEARANCE」、7位「壊れた扉から」、9位「誕生」。ちなみに14位「街路樹」)。 1992年6月16日、6月17日に日本武道館でライブを予定されており先行チケットが販売されていたが、尾崎の死によって中止となった。しかし、幻のコンサートとなったチケットを手元に置くファンが多かったためか、チケットの払い戻しに来る人はほとんどなかった。 友人の1人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人でステージを競演しようとしたが、尾崎が本番前に足を骨折してしまい、実現しなかった。 プライベートの尾崎は普通の明るい好青年であった。吉川晃司の他に、岡村靖幸との交流も有名であり、大友康平、泉谷しげる、キラー・カーンなども素の尾崎を懐かしむコメントを出している。世間が尾崎に抱くイメージとのギャップが彼を苦しめたのだという意見も根強い。意外にも、光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、よく夜の六本木で遊んでいた。 また弟分として、俳優の吉岡秀隆がいる。尾崎の影響を受け、曲作りを始めたという。彼が出演した「北の国から」では、尾崎の曲をBGMとして使ったこともある。生前、尾崎豊は自作の小説『幻の少年』を映画化することがあれば、吉岡を主人公にしたいと思っていた。 尾崎の代表曲である『I LOVE YOU』はアジア各国の歌手にカバーされ、カバー曲を含めた総売上は全世界で1000万枚に達する。 その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの公教育の現場では長らくタブー視されて来たが、死後、十年以上経った現在では、評価も変わって来ており、高等学校検定教科書に顔写真や『15の夜』の歌詞が掲載されるに及んでいる(『高等学校 新倫理 ―人間とは何か 思索の糧に―』 清水書院、2002年)。『新課程用 倫理用語集』(山川出版社、2005年)には、「尾崎豊」は用語頻度“3”で掲載されており(現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があるという意味)、「1980年代に活躍し、夭折したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている(ISBN 4634053500)。 実兄は早稲田大学を卒業後、現在弁護士登録。 葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人近くに上り、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。また密葬は日蓮正宗流にて営まれ、墓所は埼玉県所沢市にある。

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